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今だからこそ【TSUNAMI】の真相に迫る

上杉隆さんがラジオでTSUNAMIについてコメントしてくれた事に対して桑田さんがラジオで反応した事が話題になりました。桑田さんの作品の中でもTSUNAMIが物凄く売れた事で有名で、一般的な知名度が高い曲なだけに、東日本大震災による津波の記憶が生々しく残っている中、その一連のやりとりに対して相当な反応がネットでみられました。

タイトルがTSUNAMIというだけで、面白おかしく揚げ足をとられるような記事でネットが埋め尽くされると残念です。

表現する側の桑田さんが東日本大震災以後、TSUNAMIをラジオで流すとか、生歌で歌う事を控えた気持ちというのは3月10日ラジオ【仙台Date fmから生放送】のコメントを読めばよーくわかります。

この機会にTSUNAMIが発売された2000年時点で、桑田さんがどのような思いでTSUNAMIをというタイトルをつけ、曲を製作したのかということに迫り、作品がどのような背景や状況で作られたのかという基礎知識をまとめてみようと思います。音楽は頭や机の前で学ぶものではないでしょうし、解釈は自由だと思いますが曲への理解を深めることで感じるものも変わるかもしれません。

TSUNAMIというタイトルの真意

「サーフィンのビデオで『TSUNAMI CALLING』ってあるんですね。日本人が作ったやつで2~3本出てるんすよ。それがこういう表記なんです。TSUNAMIっていうのはもう英語にもなってるらしいんですけど、そういうちょっとにじんだ感じ。津波っていうのは被害をもたらす部分もあるんですけど、サーファーは世界中にとんでもないデカい波を求めていく。ともすれば命を落とすわけじゃないですか。それに行くロマンチズムっていうのは僕にはいまだにわからないんですけど。BIGWAVEじゃなくてTSUNAMIなんですよね。BIG WAVEっていうと、もうちょっと優雅な響きじゃないですか。それをTSUNAMIって表記したことでね、これは逆にとんでもない情緒感っていうのはすごいかなぁと。そういうことで、″津波のような侘しさ″っていうのがなんとなくいつぞよからか思い浮かんだんです。僕はサーフィンは小さな波でしかやらないんですけどね。大きい波は怖いからw」ぴあ 2000年1.24

TSUNAMIは″津波のような侘しさ″という津波をあえて侘しさと表現した歌詞や曲が先にできていてタイトルを考えていく中でその津波を英語表記のTSUNAMIにしたというのが流れだった。ただ、タイトルについては当時ディレクターだった松元さんが制作段階の仮アイデアのような感じで用意してあったTSUNAMIが使われたということをなにかで読んだが、それを裏付けるように12年4月7日のラジオで桑田さんがTSUNAMIのタイトルについて語っている。

タイトルの決め方(4月17日ラジオ【桑田佳祐ソロ・ワークス音楽講座PART1】)

「まぁあの思い付きでつける場合もありますよ。タイトルなんかね。他の人はどうなんでしょうね。タイトルから考えるっていうこともありますかね。えぇ。以外とオレ、タイトルとかストックとかあるよ。タイトルだけ書いてあるの。ジャズなんかってなんで歌詞がないのにタイトルがあるんだろうってちょっと不思議に思いますけどねぇ。あのーでもホント大げさにいうとねぇ、あのタイトルで曲の良しあしって結構決まるよね。いい曲ってタイトルもいいもんね。えぇ、映画なんかもそうですけど。うーん。まぁあの思い付かない場合必死に考えるんですけどねぇ、無理やり考えたタイトルはやっぱよくないねぇ、なんかねぇ、なにとは言わないけど。えっー。TSUNAMIとかね、今回のアルバムのさっきも言いましたI LOVE YOUとかね、うちのディレクター達がデザイナー達がねぇ、デザイン上オレに見せる為に仮に書いてもってきたんだよね。んで、それを超えるいいものがないんで、そのまま採用になっちゃったってこともよくあるんですけどねぇ。

TSUNAMIはなぜ売れたか

桑田さん「たまたま。たまたまでしょう。」The Music Creator Aug.2000 vol.1 インタビューアー:能地祐子

他のインタビューでも桑田さんはTSUNAMIが売れたのはラッキーパンチだといっている。作り手側・表現する側が売れる・優れた曲だと思っていても、受けて側・ファンは必ずしもそれは一致ないことの方が多いような気がするし、作り手と受け手の想いが一致することほど幸せなことはないと思う。桑田さんがサザンでベスト5に入るという楽曲をたまに発言するが、その楽曲がサザンファンの人気投票で上位にくるかというとそうではないように(キラーストリート収録にされているFRIENDSとか)。それはおそらくエンターテイメント性とアーティスト性を両立することが矛盾していて難しいことによる。言い換えれば芸人と芸術家の表現のやり方は相反する所があるともいえる。お客さんが望んでいるもの・望んでいることを提供するのと(エンターテインメント性)、自らの表現欲ややりたい事、自ら止めることのできない湧き出てくるアイデアをそのまま提供すること(アーティスト性)を両立させるのは困難だし、両立したらそれは偉大なミュージシャンの仲間入りである。多くのミュージシャンでそれを長期間持続することは稀にあるが困難である。短期間なら例はいくらでもあるだろうが、桑田さんの場合はその稀なケースであると思っている。

TSUNAMIへの思い

「自分の人生から『TSUNAMI』だけを切り取ることはできなくてさ、だから、ひとことでは説明できないよね。たとえばここ3年間とかのさ、人生の喜びとか、ストレスとか、傷ついたこととか、恨みだとか、ジェラシーとか・・・、そういうものが全部あって『TSUNAMI』が出てきたと思うんだけど。ただね、あの曲を作っている時はオレ、諦めないでいようとは思ってましたよね。」The Music Creator Aug.2000 vol.1 インタビューアー:能地祐子

「もちろんセールスという部分も、欲しいと思っていたしね。サザンオールスターズという“分かりやすさ”とかもね。何も難しくすることはない、分かりやすくしようという。そういう気持ちを、終わらせずにいたかっただんよね。ただおかげさまでね、セールスがここまでスゴいことになるとは思っていなかったんだけどw」The Music Creator Aug.2000 vol.1 インタビューアー:能地祐子

その前のシングル『イエローマン』」がなきゃ、あの曲は出てこなかったわけだし。その前の前のシングルもあって、やらしい話だけど、オリコンの○位に初登場して、すぐ下がっちゃったという痛みがなければ、『TSUNAMI』の曲のアイディアは出てこなかったかもしれない。もちろん、チャートだけの話ではないんだけどね。その、前の曲『イエローマン』に至るまでには、自分なりに、確固たる理屈があるんですよね。で、自分が絶対イイと思っていたものが、チャートからポロポロおっこっていくとなんで???って思うんですよ。誰が悪いの?オレか?いや、宣伝か?とかさwいろいろ考えるんだけど、結局、自分のやるべき事は、もうちょっとキチンとやんなきゃいけないなって思えてくるわけですよ。で、しばらくすると、ぐっとニュートラルな気持ちになって、次のシングルを作ろうとしたりしてね。たまたまインターネットを見ていたら、ファンの子が『こういう曲を作って欲しい』とか書いてて、それを酔っ払ったときに見ると『んっ!?いいよッ』なんて画面に向かって答えてしまう・・・わけですよw『いいよ。』っつったってさ、そうは簡単にはできないんだけどさ。そういう小さな要素が飛沫のように絡み合ってって、ここ何年かがあって、運よく『TSUNAMI』になったんだと思うんですけどね。」The Music Creator Aug.2000 vol.1 インタビューアー:能地祐子

「この何年かね。もっと言ってしまえばこの″TSUNAMI″は、変化球投げようとして、球がすっぽ抜けたのかもしれないwそれでど真ん中入っちゃったのかもしれないし、まぁそれは言い過ぎかもしれないけど。」
ーじゃあTSUNAMIっていうのは「この野郎、打て、これで!」っていう球ではなかったんだ、桑田君的には。
「うん、僕自身がもしかしたらー読み過ぎていたのかもしんないですね、TSUNAMI以前はね。今っぽいことをやろうとして、新しいことをやろうとして、自分だけでコケてたのかもしんないですね。だからスタッフも『もうちょっと普通にやればいいじゃん』みたいなこをと言いたくても言えなかったんじゃないかと思うんですよね。ただその、自分の中での直球、外角ストレート、ドカーン、『打ってみろ!』っていうのは、ねぇ?だけどそれ投げて見送られるっていうようなことがもしあったらっていうのも。気持ちの整理がつかないまま投げた球ですよねTSUNAMIっていうのはね。もうだから読み切れないんですよ。」SIGHT VOL.4 SUMMER 2000 インタビューアー:渋谷陽一

YoungLove以後・TSUNAMI以前

アルバム『Young Love』以後・『TSUNAMI』以前の数年はセールス的には落ち込んだようだ。YoungLove以後・TSUNAMI以前に発表されたシングルは以下の通りである。

1997年8月    01MESSENGER~電子狂の詩~ / SEA SIDE WOMAN BLUES

1997年11月 BLUE HEAVEN / 世界の屋根を撃つ雨のリズム

1998年2月  LOVE AFFAIR~秘密のデート / 私の世紀末カルテ

1998年7月   PARADICE / CRY 哀 CRY

1999年3月 イエローマン~星の王子様~ / 夏の日のドラマ

この時期のシングル作品はアルバム『さくら』を見据えてレコーディングし発表された。さくらというアルバムの実態は歌詞はリアルで、海・夏・太陽といったような脈拍の上がったようなトーンではなく、常温・平熱に近いようなトーンの楽曲達が多い。また当時のインタビューでもシングルは冒険したとの発言もあり、サザンの定番感を感じる曲は少ない。この時期は他の歌手からしたら十分売れていたであろうが、サザンにしてはセールスが落ち込んだ。

当時アルバム『さくら』が発表されてからすぐにライブツアーには出なかった。『さくら』発表とほぼ同時期にサザンのベストアルバム『海のYeah!!』が発表されサザン20周年イベントが盛り上がり、『渚園』で夏の野外での王道ライブも行われた。ベストアルバム『海のYeah!!』はバカ売れし、渚園で盛り上がったその体温を平熱に戻す期間をあえてとって次への準備期間を十分とるかのようにオリジナルアルバム『さくら』を引っさげたライブツアーは翌年春に持ちこされた。そのツアーが始まる頃に合わせて制作された『イエローマン』が発表された。しかしながらセールスはさえずにオリコン10位でランクインしたあとチャートはズルズルと下がった。そのイエローマンを核として1999年春にまわったライブツアー『Se O no Luja na Quites(セオーノ・ルーハ・ナ・キテス)~素敵な春の逢瀬~』はサザンではあまり見られない壮大な見せ方や微に入り際にわたりこだわるような構成のライブだった。そのライブツアーの直後に東京ドームでの数万人規模のライブとは対照的な1.000人程度のライブハウス・新宿歌舞伎町リキッドルームにてサザンのメンバー6人のみでライブをした。そこではシンプルなOH!クラウディア等の古い曲で盛りあがった。それについて桑田さんは自分が作った曲を人がいっしょに合唱してくれるものって最高に贅沢だったとインタビューで語っている。その直後に製作され始めたのがTSUNAMIである。それ以前の曲づくり等を反省した苦悩があったからこそ、軌道修正して生まれたのがTSUNAMIである。

TSUNAMIの曲作り

TSUNAMI』はメガヒットを狙って作った曲じゃない。自分にとっても曲が大きいか小さいかというのはあるけれど、新曲を作る際に、今言ったようにちょっとセクシーな人間関係が欲しかったんです。1999年9月に新宿リキッドルームでライブをやりまして、けっこうこれが気持ちよかったんです。お客さんを目の前にして、みんな自分たちがやっている曲をホントに楽しんでくれてるというこれほどわかりやすい光景は僕にとってはこの上なくて、音楽というのはやっぱりこういうもんだ、機械でもなければ何かのアジテーションでもない。そういう気持ちがあって、レコーディングに入ったんです。で僕にとってはビートルズの『アビーロード』の中に入っている曲みたいなものを作りたかった。エンジニアとのコミュニケーションでも、『じゃあギターどいういう音にしようか?』と問われると『ビートルズのアビーロードでコーラスかかっている感じのレスポールの音にしよう』みたいなことでやっていった。弦は島健さんがアレンジを担当してくれたけれど、『やっぱりジョージ・マーティンが書いている弦がいい』とか、そういうビートルズの文脈で話していったんですよ。欲しいものはわかりやすい言葉で伝えあった方がいい。僕にとっては『アビーロード』みたいなギターの音というのは一番伝わりやすかったし、エンジニアの林憲一君にはそれが一番わかりやすかったと思うんです。得てしてパーソナルの趣味に帰ったというわけです。」SWITCH MARCH 2001 Vol.19 No.2 インタビューアー新井敏記

「本当のことをいうと『TSUNAMI』はビートルズにしたかったんだよね。ビートルズの『ABBEY ROAD』のようなものにしたかった。だから島健さんというジャズピアニストに弦のアレンジをお願いしたけれど、その時もビートルズの4人が歩いている『ABBEY ROAD』のジャケットを見せて『ジョージ・マーティンのこの時の弦にしてほしい』と言った。彼はすぐわかったと答えた。こういうことを言うとファンの人は幻滅するかもしれないけど。」SWITCH MARCH 2001 Vol.19 No.2 インタビューアー新井敏記

重箱の隅をつつくようなことよりも、弘のドラムの生音一発であったりとかを大事にしたとの発言もしているが、音楽評論家の中山康樹さんもその著書でこうTSUNAMIをこう評価している。「ヒロシのロックなドラミング、そのヒロシを中心にしたサザンの演奏はこの時代にしては珍しくハードかつ切っ先鋭いロックそのもの、クワタの歌も声質といい雰囲気といい、甘さを殺したものとなっている。」クワタを聴け! 中山康樹 集英社新書

東京Walker 2000年11月の『この青い空、みどり』時のインタビューでTSUNAMIについての話
インタビュアー佐伯朗

「メロディはそんなに。詞は苦労しましたよね。ただ別に大ヒットを狙っていませんでしたから、僕自身も。」
-自分の聖域のローエンドからハイエンドまで使い切るっていう意図は
「全然そんなことは思ってないですよ。うん。なんだろう、ただ・・なんだろうな、ひとつ”静けさ”はありましたけどね。雑念はもういいやって。それこそ愛する人のために曲を作ろうって。業界のためにとか、どっかでつつかれても困らないように、保険をおいておくとかね。そいうのを考えずにね。
-詞もラブソングにする、ある面では彼女のために歌うってものにしようという感じだったんですか?
「ま、やりながらそうなっていきましたけど。やっぱりブライアン・ウィルソンじゃないけど”駄目な僕”をテーマにしていこうかなって。僕っていう言葉が好きだったんですよね。いわゆるビーチボーイズに見られる、音楽タイトルに見られる、僕って表記。あれにいきたかった。懐かしかったんです。情けない感じとか、丸腰な感じっていうんですかね。ここで虚勢を張ってもしょうがないっていうんですかね。ここで虚勢を張ってもしょうがないって。虚勢を排除する、アレンジも曲も詞も。だからわりとクールだったんですよ。照準が見えていたんですよね。あとはわかりやすい言葉でいくっていう。」

昔ラジオで聞いた記憶ではあるが、歌の最後のフレーズ「思い出はいつの日も雨」の雨はAwayと歌っていたことを憶えている。最近では詞が先にあって、曲をつけるという作業をここ数年チャレンジすることもあったようだが、基本的には桑田さんはメロディに仮歌(英語)をつけて曲を作るというのが多いようである。

TSUNAMIは曲の出だしがノーイントロだったり、曲の雰囲気がせつなかったり、未来日記というテレビの企画とマッチしたり、サザンの演奏や桑田さんの歌がよかったりというように曲の良さもあってか、たまたま世の中でメガヒットした。あれから約10年後、日本で東日本大震災がおきた。すべてを飲みこむ津波の威力、自然の力に言葉を失った。生々しい記憶が残るこのの状況ではTSUNAMI=津波という連想は仕方がないと思うが、この歌自体をあらためて聴きなおすと、いまこそかけるべきなんじゃないかという上杉隆さんの言葉もよくわかった。それはこの曲が歌詞だけを見るとラブソングなのだが、曲とあわせて聴いてみると、哀しみを乗り越えられるような、せつなさと向き合えるような魔法がかかっているからだと思っている。

サザンとして桑田さんがTSUNAMIを歌う日は来るのか

桑田さんも世の中の状況等をみながらラジオでかけたり、生歌で歌うことはあるかもしれないが、そもそもサザンオールスターズは活動休止中である。しかも桑田さんはソロ活動中であって今年も年末までライブツアーが決定しており、残念ながらサザンオールスターズとしてのTSUNAMIを桑田さんが歌う日という日は当分の間はこない。それまでは現時点において桑田さんがサザンとして活動休止を宣言したことを受けて行われたライブであり、雨が降る中TSUNAMIを熱唱した真夏の大感謝祭の映像を引っ張りだして見ようと思う。

大森隆志 twitter始める

大森隆志さんがtwitterを始めたようです。
■@omoritakashi
大森隆志さんは元サザンオールスターズメンバーでリードギターを担当してました。2001年に独立して独自の活動を行っているようです。
■アメブロ | 大森隆志オフィシャルサイト
ブログが更新されたら欠かさず読んでますが、ご自身のライブはサザンの曲やオリジナル曲、カバー曲などで構成されているなど自由な活動ぶりが興味深いです。
■『TABO’s PROJECT 2010 at MOTION BLUE YOKAHAMA後記③』
私はサザンの1999年ドームツアーでのメンバー紹介で桑田さんが大森さんを紹介する際に、「殺し以外はなんでもやった。」と冗談混じりに紹介してたのが印象的です。今となっては笑えません。明日7月8日に大森隆志さんの新曲が発売されるようです。応援してます。